岩手県盛岡市
聖寿禅寺の著名人の墓
15件の墓所を、写真と来歴つきで紹介します。
盛岡市北山にある臨済宗の寺で、盛岡藩主・南部家の菩提寺。境内奥の墓所には、南部氏の始祖・光行から幕末の藩主・利剛まで、歴代当主の大きな五輪塔や墓碑が並ぶ。戊辰戦争の責任を負った家老・楢山佐渡の墓もここにある。
- 所在地
- 岩手県盛岡市北山2-12-15
聖寿禅寺に眠る人々(15件)

南部光行
初代
平安時代末期から鎌倉時代前期の武将で、南部氏の始祖とされる。甲斐源氏・加賀美遠光の子で、甲斐国南部郷を領して南部を名乗った。源頼朝の奥州合戦に従って功を立て、陸奥国糠部の地を与えられたと伝わり、のちの盛岡藩主南部家へと続く家の礎を築いた。

南部祐政
9代
三戸南部氏の第9代当主と伝わる鎌倉時代後期から南北朝時代ごろの人物。南部氏が甲斐から奥州糠部へと根を下ろしていく時期の当主にあたるが、確かな史料が少なく、詳しい事績は伝わっていない。聖寿禅寺には歴代当主の一人として墓碑が建てられている。

南部信長
11代
三戸南部氏の第11代当主と伝わる南北朝時代ごろの武将。同名の人物が八戸の根城南部氏などにもいるため混同されやすい。奥州北部で南部一族が勢力を広げていった時期の当主とされるが、事績の詳細は明らかでない。聖寿禅寺に歴代当主として墓碑がある。

南部政行
12代
三戸南部氏の第12代当主。第11代・信長の子と伝わり、南北朝時代に活動した。和歌に優れ、上洛した際に詠んだ歌が朝廷で賞されたという伝承が残る。詳しい事績を伝える確かな史料は少ないが、南部家では中興の一人として語り継がれている。

南部重直
27代 1606–1664
盛岡藩の第2代藩主。利直の子。盛岡城を完成させ、城下の整備を進めた一方、家臣の大量召し放ちや参勤交代の遅参など強引な振る舞いも多かった。後継ぎを決めないまま没したため、幕府の裁定で領地が盛岡藩8万石と八戸藩2万石に分けられた。

南部重信
29代 1616–1702
盛岡藩の第3代藩主。利直の子で、母が閉伊の花輪氏の出であったことから「花輪殿様」と親しまれた。兄・重直の死後に家督を継ぎ、新田開発を進めて石高を10万石に回復させた。和歌にも優れ、領民に慕われた名君として伝えられている。

南部行信
30代 1642–1702
盛岡藩の第4代藩主。重信の子。父の隠居を受けて50歳を過ぎてから家督を継いだ。在任中は元禄の大飢饉に見舞われ、多くの餓死者を出すなど藩政は苦難が続いた。学問や文芸を好んだ教養人でもあり、父・重信と同じ年に没した。

南部利幹
32代 1689–1725
盛岡藩の第6代藩主。行信の子で、兄・信恩の死後に家督を継いだ。たび重なる凶作と幕府からの普請手伝いで悪化した藩財政の立て直しに取り組み、倹約令を出して支出を引き締めた。在任17年、37歳で没した。墓は歴代藩主とともに聖寿禅寺にある。

南部利視
33代 1708–1752
盛岡藩の第7代藩主。第5代・信恩の子で、叔父・利幹の養子となって家督を継いだ。倹約と新田開発により藩財政の再建に努め、藩政の引き締めを図った。その治世は27年におよび、盛岡藩中期の安定を支えた藩主とされる。

南部利雄
34代
盛岡藩の第8代藩主。第6代・利幹の子で、利視の跡を継いだ。在任は30年近くにおよんだが、宝暦の大飢饉では領内で多数の餓死者を出し、幕府からの普請手伝いも重なって、藩の財政は厳しさを増した。江戸時代中期の苦しい時代を担った藩主である。

南部利敬
36代 1782–1820
盛岡藩の第10代藩主。幼くして家督を継いだ。幕府の命で蝦夷地の警備にあたり、その功績で石高が10万石から20万石へ改められ、家格も上がった。一方で警備の出費や軍役の負担は領民に重くのしかかり、藩財政を圧迫する原因にもなった。

南部利済
38代 1797–1855
盛岡藩の第12代藩主。武備の充実や産業振興に積極的に取り組んだが、凶作のなかでの重い税と派手な事業が領民の反発を招き、大規模な百姓一揆「三閉伊一揆」を引き起こした。隠居後も側近を通じて藩政に口を出し続け、藩内を混乱させた。

南部利剛
40代 1827–1896
盛岡藩の第14代藩主。利済の子で、兄・利義の隠居後に家督を継いだ。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わって新政府軍と戦い、敗れて隠居・謹慎を命じられた。家名は子の利恭に継がせることが許され、維新後は東京で余生を送った。

南部英麿
1856–1910
盛岡藩主・南部利剛の次男。アメリカに留学して天文学などを学び、帰国後に大隈重信の婿養子となって大隈英麿を名乗った。東京専門学校(現・早稲田大学)の初代校長や衆議院議員を務めたが、のちに離縁して南部姓に戻った。

楢山佐渡
1831–1869
盛岡藩の首席家老。藩財政の立て直しや制度改革を進めた。戊辰戦争では藩を奥羽越列藩同盟に加わらせ、秋田藩との戦いを指揮したが敗北。戦後、敗戦の責任を一身に負って盛岡の報恩寺で処刑された。その潔い最期は少年時代の原敬に強い印象を残したという。