東京都港区
青山霊園の著名人の墓
21件の墓所を、写真と来歴つきで紹介します。
港区南青山にある都立の霊園。1874年(明治7年)に開かれた日本で最初の公営墓地の一つで、広さは約26ヘクタール。大久保利通をはじめとする明治の元勲、軍人、学者、文学者など、近代日本をつくった人々の墓が数多く集まる。墓所は「1種イ5号1側」のように、種別・号・側で示される。
- 所在地
- 東京都港区南青山2-32-2
青山霊園に眠る人々(21件)
墓所番号は「1種イ5号1側」のように、種別・号・側の順で示しています。番号の順に並べています。参拝した当時の記録のため、現地の案内図もあわせてご確認ください。

大鳥圭介
1833–1911
墓所番号:1種イ1号2側
播磨国出身の洋学者・幕臣。緒方洪庵の適塾などで学び、幕府の歩兵奉行となった。戊辰戦争では旧幕府軍を率いて各地を転戦し、箱館の五稜郭で降伏した。赦されたのちは明治政府に仕え、工部大学校校長、学習院長、清国・朝鮮公使などを歴任した。

那珂通世
1851–1908
墓所番号:1種イ1号4側
盛岡藩出身の歴史学者。藩の儒学者・那珂梧楼の養子となり、慶應義塾で学んだ。中国の通史『支那通史』を著し、学校の教科として「東洋史」を設けることを提唱したため、東洋史学の生みの親とされる。日本の古い年代の研究でも知られる。

那珂梧楼
1827–1879
墓所番号:1種イ1号4側
盛岡藩の儒学者(那珂通高)。もとの姓は江帾。兄の仇を討とうと諸国をめぐり、吉田松陰とも交わった。のち藩校・作人館の教授となって原敬ら多くの人材を育てた。戊辰戦争後は一時とらわれたが、赦されて明治政府の文部省などに仕えた。那珂通世の養父。

中江兆民
1847–1901
墓所番号:1種イ1号24側
土佐藩出身の思想家・政治家。岩倉使節団とともにフランスに留学し、帰国後、ルソーの『社会契約論』を翻訳・紹介して自由民権運動に大きな影響を与え、「東洋のルソー」と呼ばれた。第1回衆議院議員選挙で当選。『三酔人経綸問答』『一年有半』などの著作がある。

池田勇人
(58,59,60代) 1899–1965
墓所番号:1種イ1号26側
広島県出身の政治家。大蔵省の官僚から政界に入り、大蔵大臣などを務めた。1960年に内閣総理大臣(第58〜60代)となり、「所得倍増計画」を掲げて高度経済成長を推し進めた。東京オリンピックの閉会を見届けて退陣し、翌年亡くなった。

志賀直哉
1883–1971
墓所番号:1種イ2号11側
宮城県石巻に生まれ、東京で育った小説家。武者小路実篤らと雑誌『白樺』を創刊し、白樺派を代表する作家となった。無駄のない簡潔な文章で「小説の神様」と呼ばれた。代表作に「城の崎にて」「小僧の神様」「和解」、長編『暗夜行路』がある。

斎藤茂吉
1882–1953
墓所番号:1種イ2号13側
山形県出身の歌人・精神科医。伊藤左千夫に学び、短歌雑誌『アララギ』の中心となって近代短歌を代表する歌人となった。歌集『赤光』『あらたま』で知られる。東京・青山の脳病院の院長も務めた。作家・北杜夫の父である。

大久保利通
1830–1878
墓所番号:1種イ2号13側
薩摩藩出身の政治家。西郷隆盛とともに倒幕を進め、明治新政府の中心となった。版籍奉還や廃藩置県を実現し、内務卿として殖産興業を推し進めた。西郷、木戸孝允とともに「維新の三傑」と呼ばれる。1878年、東京・紀尾井坂で不平士族に暗殺された。

川路利良
1834–1879
墓所番号:1種イ4号1側
薩摩藩出身。明治維新後、ヨーロッパの警察制度を視察し、帰国して東京警視庁の創設に力を尽くした。初代の大警視(現在の警視総監)となり、「日本警察の父」と呼ばれる。西南戦争では警察官からなる部隊を率いて、故郷・薩摩の西郷軍と戦った。

鍋島直大
1846–1921
墓所番号:1種イ4号7側
肥前国佐賀藩の第11代で最後の藩主。鍋島直正(閑叟)の子。戊辰戦争では新政府軍に加わった。維新後はイギリスに留学し、イタリア公使、元老院議官、式部長官などを務めた。鹿鳴館時代の社交界の中心人物の一人で、侯爵となった。

黒田長成
1867–1939
墓所番号:1種イ4号13側
最後の福岡藩主・黒田長知の子で、黒田家の当主。イギリスのケンブリッジ大学に留学し、帰国後は侯爵として貴族院議員となり、約30年にわたって貴族院副議長を務めた。枢密顧問官にもなった。漢詩や書にも優れた。

黒田長溥
1811–1887
墓所番号:1種イ4号13側
筑前国福岡藩の第11代藩主。薩摩藩主・島津重豪の子で、黒田家の養子となった。西洋の学問や技術を好む「蘭癖大名」として知られ、精錬所の建設や医学校の開設、藩士の留学などを進めた。明治以後は藩校・修猷館の再興を支えた。

後藤新平
1857–1929
墓所番号:1種イ5号1側
陸奥国水沢出身の医師・官僚・政治家。台湾総督府民政長官、南満洲鉄道の初代総裁、内務大臣、外務大臣、東京市長などを歴任。関東大震災の直後には帝都復興院総裁として東京の復興計画を立てた。構想の大きさから「大風呂敷」とあだ名された。

松平慶憲
1826–1897
墓所番号:1種イ9号10側
播磨国明石藩の第9代藩主。幕末の難しい時期に藩政を担い、海岸に砲台を築くなど海防に努めた。鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府側についたが、すぐに新政府に従った。明治になって子の直致に家督を譲った。明石藩松平家は徳川家康の孫・松平直良に始まる家である。

松平直致
1849–1884
墓所番号:1種イ9号10側
播磨国明石藩の第10代で最後の藩主。慶憲の子。1869年に家督を継ぎ、版籍奉還によって明石藩知事となったが、廃藩置県で職を離れて東京に移った。のちに子爵を授けられる家の当主として、35歳で没した。墓は父・慶憲と同じ区画にある。

三島通庸
1835–1888
墓所番号:1種イ9号12側
薩摩藩出身の内務官僚。山形・福島・栃木の県令を務め、反対を押し切って道路やトンネル、官庁の建設を強力に進めたことから「土木県令」「鬼県令」と呼ばれた。自由民権運動を厳しく取り締まり、福島事件や加波山事件のきっかけをつくった。のち警視総監。

北里柴三郎
1853–1931
墓所番号:1種イ19号2側
肥後国出身の細菌学者。ドイツでコッホに学び、破傷風菌の純粋培養に成功、さらに血清療法を開発して世界に名を知られた。帰国後は伝染病研究所、北里研究所を設立し、ペスト菌も発見した。「近代日本医学の父」と呼ばれ、千円札の肖像にもなった。

副島種臣
1828–1905
墓所番号:1種イ21号1側
佐賀藩出身の政治家。明治新政府で政治の仕組みを定めた「政体書」の起草にかかわり、外務卿としてマリア・ルス号事件の解決や清国との交渉にあたった。征韓論に敗れて政府を去ったが、のちに枢密顧問官、内務大臣を務めた。蒼海と号し、書家としても名高い。

小村寿太郎
1855–1911
墓所番号:1種ロ8号1側
日向国飫肥藩出身の外交官・政治家。外務大臣として日英同盟を結び、日露戦争後にはポーツマス会議の全権として講和条約に調印した。2度目の外相時代には、幕末以来の課題だった関税自主権の回復を成しとげた。明治の日本外交を代表する人物である。

乃木希典
1849–1912
墓所番号:1種ロ10号26側
長州藩の支藩・長府藩出身の陸軍軍人。日露戦争で第三軍司令官として旅順を攻め、多くの犠牲を出しながら陥落させた。戦後は学習院長となり、のちの昭和天皇の教育にあたった。明治天皇の大葬の日に、妻・静子とともに自刃した。

国木田独歩
1871–1908
墓所番号:1種ロ16号16側
明治時代の小説家・詩人。千葉県銚子に生まれ、山口などで育った。新聞記者として日清戦争に従軍したのち、「武蔵野」「忘れえぬ人々」「牛肉と馬鈴薯」などを発表し、自然主義文学の先駆けとされる。雑誌『婦人画報』を創刊した編集者でもある。