神奈川県鎌倉市
鎌倉・法華堂跡(源頼朝の墓周辺)の著名人の墓
5件の墓所を、写真と来歴つきで紹介します。
鎌倉市西御門の大倉山のふもとにある、源頼朝の墓とその周辺の史跡。頼朝を祀った法華堂の跡に、江戸時代に薩摩藩主・島津重豪が整えた石塔が立つ。すぐ東の山すそには、大江広元、毛利季光、島津忠久の墓とされるやぐらと、宝治合戦で滅んだ三浦一族の墓と伝わるやぐらがある。
- 所在地
- 神奈川県鎌倉市西御門2
鎌倉・法華堂跡(源頼朝の墓周辺)に眠る人々(5件)

大江広元
1148–1225
もとは朝廷に仕える下級貴族。源頼朝に招かれて鎌倉へ下り、公文所、のちの政所の初代別当となって、幕府の政治の仕組みづくりを支えた。守護・地頭の設置を進言したとされる。頼朝の死後も北条氏と協力して幕府を支えた。戦国大名・毛利氏の祖先にあたる。

島津忠久
鎌倉時代前期の御家人で、島津氏の祖。もとの姓は惟宗。源頼朝に重く用いられ、南九州の広大な荘園・島津荘の地頭となり、薩摩・大隅・日向の守護を務めた。頼朝の子とする伝説もあり、江戸時代に薩摩藩主・島津家が頼朝の墓の近くにこの墓を整えた。

三浦一族
相模国三浦半島を本拠とした有力な武士の一族。源頼朝の挙兵を助け、鎌倉幕府で重い地位を占めた。しかし1247年、北条氏と対立して「宝治合戦」となり、三浦泰村ら一族五百人余りが頼朝の法華堂にこもって自害した。山すそのやぐらが一族の墓と伝えられる。

源頼朝
1147–1199
源義朝の子。平治の乱で父が敗れ、伊豆へ流された。1180年に平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として東国の武士をまとめた。弟の範頼・義経を派遣して平氏を滅ぼし、守護・地頭を置いて、1192年に征夷大将軍となった。鎌倉幕府を開き、武家政治の基礎を築いた。

毛利季光
1202–1247
鎌倉時代前期の御家人。大江広元の四男で、相模国毛利荘を領して毛利を名乗った。承久の乱で功を立て、幕府の評定衆にもなった。1247年の宝治合戦では妻の実家である三浦氏に味方し、頼朝の法華堂で自害した。戦国大名・毛利氏の祖とされる。