東京都豊島区
染井霊園の著名人の墓
10件の墓所を、写真と来歴つきで紹介します。
豊島区駒込にある都立の霊園。1874年(明治7年)に染井墓地として開かれた。都立霊園のなかで最も小さいが、桜の古木が点在する静かな墓地で、ソメイヨシノのふるさと・染井の地にある。岡倉天心、二葉亭四迷、高村光雲・光太郎をはじめ、明治の政治家や旧大名家など多くの著名人が眠る。墓所は「1種イ4号14側」のように種別・号・側で示される。
- 所在地
- 東京都豊島区駒込5-5-1
染井霊園に眠る人々(10件)
墓所番号は「1種イ5号1側」のように、種別・号・側の順で示しています。番号の順に並べています。参拝した当時の記録のため、現地の案内図もあわせてご確認ください。

樺山資紀
海軍大将・初代台湾総督・伯爵 1837–1922
墓所番号:1種イ3号12側
薩摩藩出身の軍人・政治家。薩英戦争や戊辰戦争に加わり、維新後は陸軍に入って西南戦争では熊本城に籠城した。のち海軍に移って海軍大臣となり、日清戦争では海軍軍令部長として黄海海戦に臨んだ。戦後、初代の台湾総督に就任し、内務大臣、文部大臣も務めた。海軍大将・伯爵。随筆家・白洲正子の祖父にあたる。

福原實
陸軍少将・沖縄県知事・男爵 1844–1900
墓所番号:1種イ3号13側
長州藩士の家に生まれた陸軍軍人・官僚(福原実)。戊辰戦争に従軍し、維新後は兵部省・陸軍省で砲台などの築造にたずさわった。西南戦争では征討軍の砲兵部長を務め、陸軍少将に進んで仙台鎮台司令長官となった。のち元老院議官、沖縄県知事を経て、貴族院議員を務め、亡くなる年に男爵を授けられた。

岡倉天心
美術行政家・思想家 1863–1913
墓所番号:1種イ4号14側
横浜生まれの美術行政家・思想家。本名は覚三。フェノロサとともに日本の古い美術の調査と保護に努め、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の設立に力を尽くして校長となった。のち横山大観らと日本美術院を創立し、ボストン美術館の東洋部長も務めた。英文の著書『茶の本』『東洋の理想』で日本と東洋の文化を世界に紹介した。

黒田和志
旧久留里藩主黒田家当主・子爵 1851–1917
墓所番号:1種イ5号1側
対馬府中藩主・宗義和の六男に生まれ、上総国久留里藩主だった黒田家に婿入りして家を継いだ。1884年に子爵となる。大審院の書記や各地の裁判所の判事補・書記、横浜の公証人などを務め、1897年からは亡くなるまで貴族院の子爵議員であった。墓碑には「子爵黒田家之墓」と刻まれている。

二葉亭四迷
小説家・翻訳家(本名 長谷川辰之助) 1864–1909
墓所番号:1種イ5号37側
江戸・市ヶ谷の尾張藩上屋敷に生まれた小説家・翻訳家。本名は長谷川辰之助。坪内逍遥と交わり、話し言葉に近い文体で書いた小説『浮雲』で言文一致体を切り開き、日本の近代小説の出発点をつくった。ツルゲーネフの「あひゞき」などロシア文学の翻訳でも知られる。朝日新聞の特派員としてロシアに赴き、帰国途中のベンガル湾上で病没した。

福岡孝弟
土佐藩出身・五箇条の御誓文の起草者・子爵 1835–1919
墓所番号:1種イ8号3側
土佐藩出身の政治家。吉田東洋に学んで藩政に加わり、後藤象二郎とともに前藩主・山内容堂を動かして、将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧めた。新政府では参与となり、由利公正の案に手を入れて「五箇条の御誓文」をまとめ、政治の仕組みを定めた「政体書」も起草した。のち文部卿、参議、枢密顧問官などを歴任した。子爵。

高村光雲・光太郎
彫刻家/彫刻家・詩人
墓所番号:1種ロ6号1側
光雲(1852–1934)は江戸・浅草生まれの彫刻家。仏師の修業から出発して木彫に写実を取り入れ、「老猿」や上野の西郷隆盛像で知られる。東京美術学校の教授も務めた。長男の光太郎(1883–1956)は彫刻家・詩人で、詩集『道程』や、妻・智恵子をうたった『智恵子抄』を残した。智恵子も同じ墓に眠る。

土方久元
土佐藩出身・宮内大臣・伯爵 1833–1918
墓所番号:1種ロ6号12側
土佐藩出身の志士・政治家。武市半平太の土佐勤王党に加わり、都を追われた三条実美ら七卿に従って長州、太宰府へ下った。中岡慎太郎とともに薩摩と長州の同盟の仲立ちに力を尽くした。維新後は農商務大臣を経て、約10年にわたり宮内大臣を務め、伯爵となった。晩年は『明治天皇紀』の編纂や國學院大學の学長にあたった。

藤堂高潔
伊勢津藩最後の藩主・伯爵 1837–1889
墓所番号:1種ロ4号8~12側
伊勢国津藩の第12代で最後の藩主。第11代・高猷の子。幕末には父を助けて京都の警備などにあたり、禁門の変でも御所の守りについた。1871年に父の隠居を受けて藩知事となったが、同じ年の廃藩置県で職を離れた。のち伯爵を授けられた。染井霊園の藤堂家墓所は、塀に囲まれた広い一画に一族の墓が並ぶ。

正木退蔵
東京職工学校初代校長・松下村塾出身 1846–1896
墓所番号:1種ロ9号
長州藩士の子として萩に生まれ、13歳で松下村塾に入って吉田松陰に学んだ。明治の初めにイギリスへ留学してロンドン大学で化学を修め、帰国後は開成学校で教えた。留学生の監督として再び渡英した際、作家スティーヴンソンに松陰の話を伝え、世界で最初の松陰伝が生まれるきっかけをつくった。1881年に東京職工学校(現在の東京科学大学)の初代校長となり、のちハワイ総領事を務めた。